「シニア偉人伝」日本代表はやっぱりこの人
【シニア偉人伝】第2回はやっぱりこの人でしょう。日本代表「伊能忠敬」さんです。
49歳で家業を隠居し、50歳で江戸の天文学者(高橋至時)に弟子入りします。55歳で測量開始、それから71歳まで、約16年かけて日本全土を歩いて測量し、初めて正確な日本地図を完成させます。73歳で死去。
忠敬さんがこんなスゴイことをやった江戸時代、平均寿命は32歳です。
平均寿命 江戸時代 32歳
明治時代 44歳
平成時代 83歳
江戸時代の平均寿命が32歳と短い理由は、医療が未発達のため乳幼児がバタバタ死んでいたからで、成人した人が平均32歳で亡くなったわけではないようです。
葛飾北斎88歳、毛利元就74歳、徳川家康73歳、長生きする人は現在と同じくらいに長生きする感じですね。
だから、平均寿命ではなく平均余命をみる必要があります。
『19世紀初期の庶民の生命表』(立命館大学:長澤克重)によると、江戸時代60歳の平均余命は、男性14.3歳、女性13.3歳です。余命ですから、男性は74.3歳、女性は73.3歳くらいまで生きたみたいです。
また、一般社団法人北奥多摩薬剤師会の研究でも、「江戸時代60歳の平均余命はほぼ14歳」となっています。
江戸時代、60歳の人が平均して74歳まで生きたとすると、 いま男性の平均寿命が83歳くらいですから、その差は約10年。忠敬が隠居して弟子入りした50歳という年齢は、現在に換算すると60歳くらいになります。
そう考えると、忠敬が家業を隠居して天文学者に弟子入りしたのは60歳、測量開始が65歳、その後約16年かけて全国を歩き「81歳で正確な日本地図を完成させた」ことになります。
歩いた距離はトータルで4万キロ。これは地球1周分にあたります。
鹿児島県の佐多岬から、北海道の稚内までの直線距離は1,866km(GoogleMap)。忠敬は65歳から16年かけて、徒歩での日本縦断を約20回も実行したことになるのです。
いまの年齢で65歳から、歩いて日本縦断を20回もやったなんて! unbelievable!
忠敬はん、残りの人生を「ホンマに好きなこと」に使いはったんやなぁ。
定年後の生活を激変させたモチベーション
幕府の天領(直轄領)で豪商だった伊能家。忠敬は49歳で隠居します。お金も十分にあり、子や孫に囲まれて、穏やかな老後を過ごせたはずです。
そんな忠敬を突き動かしたものは何か。それは紛れもなく「天文学に対する向学心」でした。
忠敬は50歳で天文学を勉強するために江戸へ出ます。当時の天文学の第一人者、高橋至時(よしとき:1764-1804 当時31歳)を訪ねて弟子入りします。
当初、至時は50歳の忠敬の入門を「金持ちの道楽」だと思っていました。しかし、昼夜を問わず勉強する忠敬の姿勢に感動し、やがて「推歩先生」(すいほ=星の動きを測る)と呼ぶようになります。
忠敬が52歳のとき、高橋至時は新たな暦(寛政暦)を完成させましたが、地球の正確な大きさがわからず精度に不満足でした。
忠敬は「北極星の高さを2つの地点で観測し、角度を比較することで緯度の差がわかり、2地点の距離がわかれば地球の外周が計算できる」
「2つの地点が遠いほど誤差が減るので、江戸から蝦夷地(北海道)まで距離を測ることができれば、正確な地球の大きさがわかる」と考えます。
しかし、当時は幕府の許可がなければ蝦夷地へは行けません。そこで至時と忠敬が考えた名目が「地図製作」でした。
至時と忠敬の目的は「地球の大きさを測り正確な暦を作成すること」です。地図製作は蝦夷地への移動の許可を得るための「口実」だったのです。
幕府は蝦夷地のみならず、東日本全体の測量許可をだします。
「正確な日本地図の作成」という偉業は、正確な暦をつくるための口実から始まったんだ。へぇー、「事実は小説より奇なり」だね!
セカンドライフの達人、伊能忠敬ってどんな人?
江戸時代、日本国中を測量してまわり、初めて実測による日本地図を完成させた人です。
忠敬は、延享2年(1745年)現在の千葉県九十九里町で生まれ、横芝光町で青年時代を過ごし、17歳で伊能家当主となり、佐原で家業のほか村のため名主や村方後見として活躍します。
その後、家督を譲り隠居して勘解由と名乗り50歳で江戸に出て、55歳(寛政12年、1800年)から71歳(文化13年、1816年)まで10回にわたり測量を行いました。その結果完成した地図は、極めて精度の高いもので、ヨーロッパにおいて高く評価され、明治以降国内の基本図の一翼を担いました。
シニアの星、伊能忠敬をYouTubeで見る
定年後に輝いた、伊能忠敬年表
年号 | 年齢 | 事柄 |
---|---|---|
延享2年(1745) | 0歳 | 現在の九十九里町小関に生まれる。幼名三治郎 |
宝暦元年(1751) | 6歳 | 母が亡くなり、父貞恒は兄・姉を連れて実家に帰る |
宝暦5年(1755) | 10歳 | 父のもと(神保家、現在横芝光町小堤)に戻る |
青年期 | 土浦の某医者に医学等を学ぶが詳細は不明 | |
宝暦12年(1762) | 17歳 | 佐原伊能家の婿養子となりミチと結婚。名を忠敬とする |
明和6年(1769) | 24歳 | 佐原の祭礼で紛争 |
安永元年(1772) | 27歳 | 佐原村河岸一件が起こる |
安永7年(1778) | 33歳 | ミチと松島へ旅行に行き、『奥州紀行』を記す |
天明元年(1781) | 36歳 | 佐原村本宿組名主となる |
天明4年(1784) | 39歳 | 本宿組名主をやめ村方後見となる |
寛政3年(1791) | 46歳 | 家訓書を書く |
寛政5年(1793) | 48歳 | 関西へ旅行し『旅行記』を記す |
寛政6年(1794) | 49歳 | 家督を長男景敬に譲り、隠居し勘解由と名乗る |
寛政7年(1795) | 50歳 | 江戸深川黒江町に住み、高橋至時の弟子となる |
寛政12年(1800) | 55歳 | 第1次測量:東北・北海道南部測量 |
享和元年(1801) | 56歳 | 第2次測量:関東・東北東部測量 |
享和2年(1802) | 57歳 | 第3次測量:東北西部測量 |
享和3年(1803) | 58歳 | 第4次測量:東海・北陸測量 |
文化元年(1804) | 59歳 | 日本東半部沿海地図を幕府に提出し、将軍家斉の上覧を受ける。以後幕吏に登用される |
文化2年から3年まで(1805から1806まで) | 60歳から61歳まで | 第5次測量:畿内・中国測量 |
文化5年から6年まで(1808から1809まで) | 63歳から64歳まで | 第6次測量:四国測量 |
文化6年から8年まで(1809から1811まで) | 64歳から66歳まで | 第7次測量:九州1次測量 |
文化8年から11年まで(1811から1814まで) | 66歳から69歳まで | 第8次測量:九州2次測量 |
文化11年(1814) | 69歳 | 自宅を八丁堀亀島町へ移す |
文化12年から13年まで(1815から1816) | 70歳から71歳まで | 第9次測量:伊豆七島測量(忠敬は不参加) |
文化13年(1816) | 71歳 | 第10次測量:江戸府内測量 |
文政元年(1818) | 73歳 | 死去 |
文政4年(1821) | 大日本沿海輿地全図(大図214枚・中図8枚・小図3枚)及び大日本沿海実測録(14巻)が完成 |
『伊能忠敬とは』(伊能忠敬記念館ウエブサイト)
https://www.city.katori.lg.jp/sightseeing/museum/tadataka.html
定年後に夢を実現した、忠敬さんの最期
第10次測量(江戸府内)を終えた忠敬は、江戸八丁堀の屋敷で地図の作成作業にとりかかりました。
しかし、文化14年(1817年)の秋頃から持病の喘息がひどくなり、病床につくようになります。
文政元年(1818年)になると急に体が衰え始め、4月13日弟子たちに見守られながら、74歳で生涯を終えました。
忠敬は死の直前「私がここまでくることができたのは高橋至時先生のおかげであるから、死んだあとは先生のそばで眠りたい」と言い残します。
その遺言通り、高橋至時の墓地がある上野源空寺にて、高橋先生の傍らで眠っておられます。
一度は行きたい伊能忠敬記念館
【伊能忠敬記念館】 伊能忠敬の生涯に興味のある方は、ぜひ一度訪ねてみてください。
住所 | 千葉県香取市佐原イ1722番地1 |
電話 | 0478-54-3649 |
FAX | 0478-54-3649 |
開館時間 | 午前9時から午後4時30分まで |
休館日 | 月曜日(国民の祝日は開館)、年末年始 |
たとえ60歳からのスタートでも
不可能なんかない。何でもできる!